今を生きる(3)

今を生きる(3) !!

令和3年7月 続編として開設

令和3年(2021年)、オリンピックも開催され、このままコロナが終息するのかどうか予断を許しませんが、我々21回生の仲間は71歳を迎えるが、年齢には関係なく、このHPを交流の場として、長い友情を維持して行きます。

「メールなど報告は、ちょっと面倒やな」 と思うと、それだけで「気分が籠ってしまって、知らず知らずのうちに老け込んでゆく」友との交信は、老いゆく脳を活性化させる。 
歳は老いても気持ちは老いるなよ!

第71便 歩こう会 筑紫路堪能コース   ・第72便 徒然なるままに   

第73便  歩こう会番外編 帰福の福嶋君を歓迎 !  ・ 第74便  我らが先輩、タモリの裏話  

第75便   歩こう会・志賀島ツアー  ・ 第76便   歩こう会 筑紫路堪能コース 8月27日   

第77便   福岡vs博多、地元民も、えっ!知らんかった!  ・ 第78便   福岡VS博多 への反響と面白い話  

第79便   歩こう会 筑紫路堪能コース 9月24日(金)  ・ 第80便   歩こう会 緊急事態宣言解除 アルコール会?  

第81便   秋を愛でるー北信濃、斑尾・小布施の秋と温泉を堪能  ・ 第82便   巨木巡礼 その3   

第83便   歩こう会、関家での集い、手作り美酒佳肴   ・第84便 歩こう会 麺処かわべ 少しはやか、年越しそば編   

第85便  歩こう会  2021年最後の 筑紫路堪能コース


棚田 隆憲番外コメント
前回で今年最後の歩こう会と思うとったら、なんと年の瀬も押し詰まった24日(金)に、今年最後の「歩こう会」をしたらしい。皆、元気そうで、コロナ禍に負けず人生の一日一日を楽しんでいるようだ。今年は色々な話題を提供してくれた「歩こう会」だが、来年も元気に歩き回って(高齢者には良い事だ)、よく飲み、よく語り、そして全国の同窓生に元気を届けてくれ。
そしてこの 今を生きる(3)もこの85便で終わり、2022年は 「今を生きる!2022」として再出発します。
高齢者にとって、少し閉塞感のある現代でなので、同級生の消息、生き様の様子が、「私も頑張ろう!」という勇気を与えてくれる。 どうか来年は、他の皆様も、それぞれの日々を、簡単でもよいので、この場に届けて欲しい。忘れられる前に、「俺も、私も生きているよ!」とメッセージを発して下さい。編集者にも励みになる!
それでは、この場を借りて、

「皆さん、よいお年を!」

鳩宿記

12月24日、今年、最後の51回目「歩こう会」は、行實君の企画「筑紫路堪能コース」です。二日市集合のウオーキング組の参加者は行實君、稲永君、本吉君、小西さん、服部君、鳩宿の6名で、えん家直行組は寄川君、関夫妻でした。12:00二日市駅集合で、玄昉の墓~武藤資頼・資頼の墓~都府楼跡(太大宰府政庁跡)~坂本八幡宮~13:00都府楼前駅(えん家)コースでした。
今回、玄昉の墓、武藤資頼・資能の供養塔は、行實君以外は誰も知らんやった。特に情報通の稲永君が知らんやったので、行實君が勝ち誇り、ご満悦だった。和やかな天候にも恵まれ、和気あいあいに、歴史を感じたウオーキングでした。行實君、いつも事前に試行してくれて、ありがとう!
編:玄昉(げんぼう:編者も知らんかった。奈良時代の法相宗の僧。聖武天皇の信頼も篤く、吉備真備とともに朝廷に重用されたが、観音寺完成に怪死したと伝えられている。 行實君は歴史に詳しいのう!)

 
墓掃除しとるジジイは誰じゃ???

武藤資頼・資能 供養塔
鎌倉時代から守護職として九州に派遣された関東御家人で、大宰府を統治した武士の統領。博多の博多祇園山笠の発祥の地、承天寺を建立したことでも知られている。現在も一族が管理している。「お~い!手前だよ~」

 
 
大宰府政庁跡
奈良、平安時代にかけて置かれた役所跡地。九州の政治や外交の中心を担い、その規模は平城京、平安京、に次ぐものだったといわれるだけあって、広々とした空間は、当時の栄華を彷彿させる。それに、広々とした解放感、そびえ立つ山の雄大さは、四季と歴史を感じさせます。この景観は残してほしいものです。現在は礎石が残るのみ。

                

都府楼跡もこげんして見ると、雄大じゃな!

坂本八幡宮 
元号「令和」のゆかりの神社令和元年当初は、参拝者が殺到したが、最近は令和フィーバーも下火になり、のんびり参拝が出来ました。どこにでもありそうな風情のある小さな神社だった。今年一年、歩こう会が51回開催でき、一年間無事に過ごせたことのお礼と、来年も開催でき、メンバーはじめ、21回生の幸せを祈願した。「ガオカ愛」があふれている「歩こう会」たい!神様パワー」が強くなるといわれている年末詣(冬至22日~31日)が出来て、本当に良かった。

   
そうそう、城戸寛君(3年4組)の揮毫の歌碑(大友旅人の歌)があるばい。大宰府高校の書道の先生の時に、依頼を受け揮毫したとの事。機会があれば、ぜひ、歌碑を見に来んしゃい!
 

     さあ、これから美酒、美肴の宴会の始まりたい! こげな、旨か美肴ば食べとったら、全国の同窓生から、 恨まれるぞ!! それにしても、よだれが出そうじゃ!

「えん家」(美酒佳肴)
肴は、クリスマスイブのスペシャルで、隠岐の魚三昧でした。新鮮な厚切りの刺身で魚の「本当の甘さ」を十分に堪能しました。切り身、たっぷりウニと刺身肝和え、牡蠣蒸しとサザエ、思いがけないお造りきびなごの天婦羅等々・・・
何?美肴の解説付きか!恨みは募るばかりじゃ!
切り身・・カンパチ、ヨコワマグロ、アジの厚切り。
     ヨコワマグロは、モチモチ感がとてもあり小西さん感激!
うに・・・ウニが出された時、量が多く、「すごかぁ~」と歓声が上がった。恨み倍増!淡白で上品な甘みのある
     たっぷりの紫ウニ、最高でした。ため息しか出ん!!また横の刺身の肝和え(カワハギ)はこってりとした     旨味と甘さが絶品。お酒もすすむ、話もすすみ、大いに盛り上がった。
お造り・・30㎝ぐらいの大カワハギ、ヒラス、水イカの厚切り。水イカは、身が厚く弾力の歯ごたえと甘みがあり    、あっという間になくなった。
カワハギの厚みの刺身は、脂肪分の少ないあっさりとした白身で、歯ごたえがありとてもおいしい。これもあっという間になくなった。
カワハギの刺身で、「1枚しか食べてない!」とぼやいていたモンがいた。すると「3,4枚食べたモンが、早いもん勝ちたい!」とすまして言っていた。新鮮な厚切りの刺身やけん奪い合いになってもしかたなか。
お造り、きびなごの天婦羅など大皿には、「ガオカ愛」は、なかばい。当たり前じゃ!こげな美肴を前にして「愛」なんか、あるわけなかろうが!!
   
              
               紫ウニじゃ~~ああ~~!

お酒は、常連の寄川君の知人から、ウイスキー山崎や焼酎甕幻壷の差し入れがあり、高価な酒から先にグイグイ飲んで堪能し、会話が盛り上がった珍しい、「さつま一本義」は、芋臭さ抑え、女性向きの上品な淡い香りのフルーティーな焼酎でした。
 
まるで、酒池肉林、、、いやいや酒池肴林じゃ!   
関君も元気に、食べて飲んじょる!ほんなこと、よか風景じゃ!

今回の「えん家」の飲食代は、いつもより500円高い3500円だったが、品数も多く、新鮮な厚切り「刺身の甘さ」を存分に味わった。お腹も満たされ、心も満たされ、終始、最高にいい気分の中での歓談だった。アッという間に「令和の里の宴」の楽しい3時間が過ぎ、年明け1月7日の初「歩こう会」(三社参り)の再確認をし合って、散会した。
今年、最後の「歩こう会」の掉尾を飾る素晴らしい盛り上がりに、大ちゃん、ママ、寄川君に感謝!
          

「歩こう会」は、

  来年も「よく歩き、よく食べ、よく飲み、よく語る」

                        今を楽もう!

     
関君も奥さんに支えられ、そして皆も、歩いて、食べて、飲んで、語って、元気じゃ!今年最後の笑顔が非常によろしい!美酒病院の恨みは、この笑顔で消えてしもた!!
来年も、元気で知らない地元、美酒美肴を報告してくれ。皆、よいお年を!!!

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番外コメント
今年もコロナ、コロナで年が過ぎ、嫌なニュースばっかりやった。それでも、我が同級生は元気で生きちょる。
このHPも「ガオカ愛」で溢れちょる。もしかしたら、これが今年最後の掲載になるかも知れんばってん、皆、来年も元気で交信を続けよう!来年は良い年になるように、願いを込めて、地元の歩こう会のニュースを掲載します。



編:気の早か年越しそば、ばってん、よく歩き、よく飲み、よく食べ、よく語り、それでよか!元気が一番。
(12月17日)
今年、50回目の歩こう会は、「麵処かわべ」の年越しそばになった。去年は、26日で、参加者は4名。
今年は関夫妻、本吉君、寄川君、稲永君、小西さん、鳩宿、と、遅れて参加の大浦君で8名になり活気も倍増した。Parco組(稲永、小西、本吉、鳩宿)は、「Parco~アクロス福岡~オオトリ顔出し~楽水園~麵処かわべ」 の強風60分コースだったが、「麵処かわべ」に時間通り13:30元気に着いた。皆、体力あるなぁ~。

「あかり絵(アクロス福岡)」
今回も、福岡の古き良き時代を伝える「あかり絵」(素焼きの人形を、照明、そして博多の方言が彩る)30セットのオブジェ展示を鑑賞。福岡の古き良き時代を思い起こして、ほのぼのとした博多の方言とともに優しく、あたたかい、なにかホッとするような穏やかな、ひと時でした

  

        

展示場のアクロス福岡は、四半世紀を経過して、天神のど真ん中で、深い緑に覆われた標高60メートルの「アクロス山」として山らしくなってきた。頂上の展望台では、360度のパノラマが広がり、博多ポートタワーや能古島や志賀島のシルエットも遠くに見えて最高!歩こう会は、「アクロス登山」でも楽しんでいる。

「オオトリ顔出し」と「楽水園」
大取君が、一人で店番をしとった。「いつもよかね!俺も行こうかな?」と言いながら、優しく見送ってくれた。
(いつか、大取君も参加出来たら良かね)
「楽水園」は、本吉君が「場所はどこいらへんかな?」ということで、コースに入れた。時間がなかったので、玄関と博多練塀の入り口で写真だけ。次回、彼女と行くとやろか?(70過ぎのジジイが、彼女と行く 夢のまた夢! ばってん、よか夢やね、元気が出るバイ)場所は、住吉神社の隣。池泉回遊式日本庭園で、100円で鑑賞できる。

  


麵処かわべ

川辺君の「自分の家と思って楽しみやい!」の優しい言葉に感謝!川辺君及びご家族のご支援のおかげで今年も4回開催することができた。本当に「ガオカ愛」を感じる。
 

びっくりしたことがあった。関君が大浦君に、酒(四合瓶)を注いでいる。後で奥さんに聞いたら、「今までには、なかった。友達と会うと100倍元気になる。今回は200倍になったのかな?」とのこと。幸甚の至りである。
「年をとったら、食べなさい」の本の後押しで、あっという間に3時間の飲食と語らいが過ぎた。

        
イヤー、こげな関君見たことなか! 全くの健常者(皆、故障を抱えたジジ・ババだが、、)のごとある。こげな関君の姿ば見ると、嬉しか!元気付けられる!!いいぞ!いいぞ!500倍でも1000倍でも元気になれ!!

美酒佳肴
肴は、もずく、天婦羅の盛り合わせ、カツとじ、天むす、ざるそば。天むすは、大エビ1本のスペシャル天むす。初めてで、美味しく、大満足。全員完食で、胃袋も若い!お酒は、奥の松(会津)、谷川岳(群馬)、写真にはないが、龍勢(広島)。
特に、大浦君は、日本酒が「うまか!」と言って、グイグイ飲んでいた。「かあちゃんに飲ませてもらえんちゃないのか?」の声も出ていた。無言・・・(無言が笑える。絶対かあちゃんに飲ましてもらえんとやろ!気にせんと、良く食べ、よく飲み、よく語ったら、寿命が延びるバイ!)
残りの菊の露(琉球泡盛)三岳(屋久島限定酒)、は、来年の1月7日(金)新年歩こう会に持ち越し。楽しみが増えた!

   
「年とったら、食べなさい」の本
歩こう会のスローガン「よく歩き、よく食べ、よく飲み、よく語らう」の後押しの本だった。感謝の気持で、少しでも多くの高齢者に読んでもらうために、歩こう会のメンバーの地域の図書館に購入してもらおう!
図書館利用カードを作り、リクエストカード(購入依頼表)を提出すればよいだけ。
福岡市南区図書館(小西)、春日市図書館(稲永)、大野城市図書館(本吉)、筑紫野市図書館(森実)、大宰府市図書館(瀬戸口)志免町図書館(鳩宿)
(娘の編集した本に、これだけして気をかけてくれるなんて、感謝、感謝!) 

歩こう会は、  「よく歩き、よく食べ、よく飲み、よく語らう」で     75歳をクリアするぞ!!

そうじゃ、そうじゃ、その意気たい! 来年も元気な報告頼んどくけんね!良いお年を!



人づてに、関家で新米を食べる会が開かれる、と聞いていたが、鳩宿君から報告が来た。新米どころか、美酒佳肴、関君の奥様の奮闘と、もてなす心が、美酒、食材、場所、友の絶妙なマリアージュを創出したようだ。写真からはそれが窺える。

今年、44回目の『歩こう会』、急遽、11月19日12:00から関家での集まりにて旧交を温めることになった。各自が、お酒、肴、紙コップ、紙皿、箸、を持ち寄りましたが、最終的に関家に、メインディッシュなど(手作りハンバーグ、イノシシのソテー、牡丹鍋,新米・・・)お世話になった。参加者は、直行組5名(服部君、高本君、森実君、行實君、田所さん)福岡空港集合組4名(寄川君、稲永君、小西さん、鳩宿)、関夫妻計11名。小春日和の気持のいい昼下がり、威勢のいい老人達が集まり、酒を呑み、うまか肴を食べながら人生を語り我を語る。
節ちゃん(関君の奥様)、田所さん、小西さんのおかげでワイワイガヤガヤと美酒佳肴を堪能しました。お疲れ様。感謝!

※ 威勢の良い「吞兵衛」の老人たちが楽しんだ、美酒から紹介しようではないか。

 

泡盛2本、日本酒5本計7本とビール等の酒比べになりました。
辛口目の食中酒の奈良の「金獄」、飲み飽きしない会津の「奥の松」、旨味あり喉越しの良い秋田の「大平山生もと」、
オーク樽の風味を楽しめた黒部の大吟醸の地酒「幻の瀧」、
古酒の泡盛で、奥深いコクとまろやかな「残波プレミアム」、ちょっと辛めより「多良川」

※ここは酒池美食林の居酒屋か 
※さてさて、このような美酒に、どんな佳肴、美食を楽しんだのかな?お品書き(??)を見てみようじゃないか。

①持ち込みオードブル品々
同級生の高坂君からの味噌、ゴマ和えの「里芋煮つけ」、焼き肉タレ漬け「煮卵」、「野菜の豚肉巻き」、稲永家「ラッキョウ」、「かしわのから揚げ」、「明太子」、「枝豆」、「レーズン入りカボチャのサラダ」、「剣先イカの網焼き」、「ねじりこんにゃく」、「ひらおの塩辛」など・・・(品数が多すぎて忘れたのがある。ごめん!)
(そげん沢山あったとや?)
②節ちゃん手作りハンバーグと厚揚げの「立山黒部のうま辛味噌田楽」
③ 丁寧な下処理で臭みのない「熊本産イノシシ肉」だった。猪肉は豚肉より味が濃厚だが、油っこくない。栄養価が高く、血管の健康を保つ効能があり、老人にありがたい。
(なな、なんと猪肉で長寿とな!)
④ 節ちゃんの「イノシシ・ソテー」に感激している二人
⑤ 味噌でほっこりの「牡丹鍋」と京都のやよい「ちりめん山椒かけ御飯(新米)」
⑥ 関家ご用達の初摘み「八女茶」と「手造りまめいた」

※ ひやー、たまげた!こげな佳肴、美食では、 さぞかし寿命も延びたことじゃろう。ではその佳肴、美食を拝見するか。

   

  

  

 

※皆の声が聞こえそうじゃ

 「待っとるばい!来て、食べて、飲んで、語らんと わからんばい!

関君のつぶやき
森実君は、奥さんの一周忌まじかで、奥さんの思い出に浸り部屋から一歩も出ない寂しい日々を送っているとの事。今も、奥さんのことを想い部屋に一人籠っているので、電話で急遽呼び出したら、少し遅れて来た。彼とは大学も一緒だったが、夫婦の思い出の品を整理していたら結婚式のビデオが出てきて、それに40年前の踊っている小生が移っているとのことで今度持参するとの事。
愛妻を忘れずにただ一人で生きている友を見るにつけ、頑張れと友の背中にエール送る。有り難きは友達かな!

田所さんつぶやき
21回生の歩こう会メンバーが、関家に集う!
奥さんの節子さんの血と汗の結晶、新米を食す企画。待望の新米ご飯は、3時間、酒を飲み秋の味覚を味わい、語らいながらのあと、最後にやってきました。節子さんの愛情込めたイノシシの味噌汁で温かい新米を頂きました。
甘くて柔らかい炊き立ての新米は、じんわり喉を通ります。その前に思いきり飲み食いしていたのに、完食!美味しいものは違いますね。関さんありがとう!


関君、服部君、森実君、行實君、高本君達が元気だったので安堵した。

酒と肴を堪能し旧交を温めた。

「ガオカ(が丘)愛」が満タンな「歩こう会」でした。


    

おまけ、関家の広大な秋のぶどう畑と帰宅途中の東平尾公園の紅葉街路樹

 

※写真を撮るのに忙しかったんじゃろう?鳩宿君の姿が映っとらん。次回は自分の姿も誰かに撮ってもらわんね。
それにしても、深まりゆく秋の一日にこのような饗宴が楽しめるとは、同級生の結束が有って出来るし、
我々も「もう70歳」なんて思わずに、「まだ70歳!」と思うようにして、同級生と旧交を温めたいものじゃ。



久々の高山君からの投稿である。こうやって巨木巡りをしているところを見ると、元気な事が窺える。

コロナ感染もかなり下火になったのを見定め、栃木の山奥へ錦秋を愛でる旅に出た。鬼怒川の最上流と山を越えた桧枝岐当たりは、秋田と青森県境の白神山地と並び、本州の最後の秘境と言って良いだろう。息子達が小学生の頃は渓流釣りに毎年連れて行っていた処でもある。山猟師が営む民宿の囲炉裏を囲んで、濁酒と共に食する熊、鹿、猪、岩魚、山椒魚、山菜、茸の味は格別であった。月日は立ち、親しんだ山猟師も鬼籍に入り、もうあの味は幻かと思っていた。ところが、偶然インターネットで昔同様の料理を供する湯西川の温泉民宿を見つけ、巨樹巡礼の初日に宿泊できとても満足し帰宅した。

                

栗山村の「平家杉」源平合戦の後、鬼怒川上流栗山に落ちのびた平家一族が再起を期して植えたと云う伝承がある由 樹齢は700年程度か?

          

       那須塩原の「逆さスギ」樹齢は900年とか 樹勢はまだまだ盛ん

編:高山君、投稿ありがとう。元気そうで、巨木巡り、結構結構。目の前に有るが、自然の雄大さを感じさせる巨木。年月を感じるな。民宿の囲炉裏を囲んでの飲食、すごく魅力的に思える。次回の投稿期待してます。
編:巨木巡り その1.その2.は 今を生きる(1)第14便に載ってます。


東京も感染者が連日30人以下になり、宣言も解除され、11月8,9,10日に、長野県 斑尾の山小屋に、北信濃の秋と温泉を楽しもうと、高鍋夫妻、飯田真理さん、高阪洋子さん、福島君、棚田の6人が集まった。高阪さんは名古屋からの参加、それ以外は東京・横浜から。
食事はすべて、毎日高鍋君の手料理、これがまた毎回絶品!!!種々の酒とのマリアージュが極上の世界へと導いてくれた。勿論毎日、子供、孫、同級生、青春時代の尽きない話も極上の酒の肴になった。
往路の高速道路休憩処で、紅葉の美しさが目に飛び込んでき
 

               

山小屋到着後、昼過ぎ、皆で近くの温泉、馬曲温泉(まぐせおんせん)を楽しんだ。露天風呂には落ち葉が浮かび、自然を感じさせる。通常の、囲われて天しか見えない「露店風呂」と違い、山の上にあり、囲いの無い露天風呂からの谷合の景観は、湯の楽しみ以上の世界が広がる、「露景風呂」と呼ぶに相応しい。
 
 馬曲温泉入り口              露天(露景)風呂からの景観

紅葉は終わりがけではあったが、山の景観も何とか色づきを保った気配で、ところどころの美しい紅葉が目を楽しませてくれた。道なりに、ススキが群生していて、一部銀色の世界を醸し出していた。露店風呂に行く途中には、紅葉に彩られた、水車小屋が今でも、水を運んでいる。

     
                                 水車小屋

夜は外でバーベキューの予定であったが、生憎の雨で、急遽室内での食事となった。夜半からの雨と強風であったが、コロナ自粛明けの友との語らいは、酒と極上の手作り料理とのマリアージュが、自然の逆境を忘れさせてくれる。

翌日も小雨が続いたが、21回生6人はめげずに野沢温泉へと向かう。道々の銀色のススキは、雨に濡れそぼって、枯草のような色合いに転じていた。この温泉は無料の公共湯が13所あり、その中の有名な大湯に入る。しかし、驚いた。
建屋は古いが、入り口を入ると直ぐに履物入れがあり、そのすぐ横に、脱衣を置く棚があり、すぐ横がもう風呂なのである。脱衣場がない。洗い場も無い。驚きはこれだけではなかった。湯舟が2つあるのだが、一つは熱い湯、もう一つは通常湯。しかし、この通常湯が、とんでもなく熱い。隣の熱い湯は、手を差し込んだだけで、その熱さに慌てて手を戻した。地元の老人たちは、この熱い湯にあえて入るらしい。老域で熱さ加減の感覚が麻痺しているのかと思ってしまう。しかし、まだまだの我々は、意を決してそろそろと熱い湯に入る。じっとしていても熱い、動くと余計に熱い。数分もせずに上がる、体を冷やして(熱は冷めない???)また熱い湯に入る、を数回繰り返すうちに、だいぶ暑さに慣れて来た。小雨で少し気温が下がった外に出ても、体の温かさは全く冷めなかった。後で聞いたが、女性連は、若い娘さんに、風呂でのマナー、湯もみの仕方などを教わったらしい。福嶋君は、別の風呂に立ち寄って、残りのメンバーは土産物屋で彼を待っていた。福嶋君が出て来たのが見えたので、残りのメンバーで、彼が開口一番何と言うか、「あー、良かった」「別の風呂にも入りたか」「次回は13箇所全部を周りたか」、、、そして我々の所に戻った途端、福嶋君は「あー良かった!」。 我々は皆で笑った。福嶋君だけがキョトンとしていた。温泉街は小さいが、こじゃれた店や、英文表示もあり、独特の街並みだが、多くが閉じていた。小雨の為、写真を撮るのを忘れてしまった。熱い湯の話題などで、帰路につき、体がまだ暖かいまま、部屋にたどり着いての冷たいビールの喉越しは、ここ数年味わってない極上のものであった。

最終日は、雨も風も収まり、陽も出て「秋が立った」日よりであった。この日は小布施へ向かう。道々で撮った写真で、北信濃の景観を楽しんでもらう。
 

 

     

まず訪ねたのが、岩松院。ここは葛飾北斎が最晩年に書いた天井絵で有名。ここでは、驚きの事実に幾つか出くわした。

一つは、当時80歳を超えた北斎が、この小布施を気に入り、江戸から8日もかけて、それも何度も訪ねていたと言う事である。その晩年に描いた「八方睨み鳳凰図」(天井絵)は、浮世絵、版画等とは違い、迫力もあり、日頃目にする北斎とは違い、、構図も老域を感じさせないものであった。

   

            
              八方睨み鳳凰図 (天井画、葛飾北斎晩年の画)

            

二つ目は、この場所が、我らが故郷 福岡に繋がった事である。これには我々も驚いた。説明しよう。
福島正則から説き起こす。
              
正則の菩提寺は「京都 臨済宗大本山妙心寺・塔頭海福院」ですが、国替え・移封のため、当地にも菩提寺を求めました。ここ岩松院の裏手にある霊廟には遺骨が埋葬され、遺品の一部が本堂内に展示されています。

この正則は、「日本号」(ひのもとごう)という有名な槍を有してました。この槍は、正親町天皇より室町幕府15代将軍である足利義昭に下賜され、その後、織田信長を経て豊臣秀吉に渡り、秀吉より福島正則に与えられたと記されてます。

正則は自慢の槍として所持していたが、あるとき、黒田藩 黒田孝高の家臣である母里友信(もり とものぶ)(通称は太兵衛:たへえ)が主君の使者として正則の屋敷を訪れた。友信は酒豪として知られており、正則は何度も酒を飲むように勧めていたが友信は使者として来ていることを理由に固辞し続けた。次第に正則は苛立ち「黒田家には豪傑はおらぬ」と放言し、大杯に酒を注いで「貴殿がそれを飲み干したら、何でも望む物を与えよう」と言って強要した。すると友信は大杯に入った酒を一気に飲み干して、正則の口約束に従って「日本号」を欲しいと言った。正則は後悔したが、武士に二言はないとして友信に「日本号」を分け与えた。後にこの逸話により本作は「呑み取りの槍」とも呼ばれるようになり、「黒田節」によって歌われることで広く知られることとなる。

    
  福島正則               霊廟                          母里太兵衛  
槍は穂(刃長)は2尺6寸1分5厘(79.2センチメートル)、茎(なかご)長は2尺6分5厘(80.3センチメートル)、拵えを含めた全長(総長)10尺6分余(321.5センチメートル)である。槍の樋(ひ、刃中央の溝様の部分)には倶利伽羅龍(くりからりゅう)が浮き彫りにされている。槍本体の重さは912.7グラムであり、拵も含めた総重量は2.8キログラムである。
現在は福岡市博物館の所蔵品として常設展示されている。岩松院には、等身大の写真が飾られている。

と、まあ、我らが故郷 福岡に繋がった!! 予備知識が無かった我々には驚きである。
福博の地元民は誰でも覚えているであろう、黒田節である。でも結構2番3番は知らないかも知れない。良い機会なので、すべて記してみる。

酒は飲め飲め飲むならば
日の本一のこの槍を
飲みとるほどに飲むならば
これぞまことの黒田武士

峰の嵐か松風か
訪ぬる人の琴の音か
駒をひきとめ立寄れば
爪音高き想夫恋

春の弥生のあけぼのに
四方の山辺を見わたせば
花のさかりも白雲の
かからぬ峰こそなかりけれ

花たちばなも匂うなり
軒の菖蒲もかおるなり
夕ぐれまえの五月雨に
山ほととぎす名のりして

3つ目は、係員の説明によると、飾られていた像の一つが、この2月に名古屋から寄贈されたものである事が分かった。
ここで、高阪さんが現在住んでいる名古屋に繋がった。

「縁」とは奇なるものであると、全員感心する事しきり。

もう一つ、我々は訪ねなかったが、小林一茶と蛙合戦の池 と言うのも有るらしい。

「やせ蛙 負けるな一茶是にあり」

俳人 小林一茶が病弱な初児 千太郎を想って句を詠んだ”蛙合戦の池”。池のほとりには一茶直筆の句碑があり
春の花見が終わる頃になると、裏庭の小さな池に大人の手のひら大のアズマヒキガエルがいずこともなく集って来ます。メスの産卵をオスが手伝うためですが、メスが少ないために奪い合いとなって合戦となります。
ここで生まれた蛙たちは3年から5年でまたこの池に産卵に下りてきます。そのため“必ずかえる”福蛙とも呼ばれています。

             

 午後は小布施に行き、北斎館を訪ねた。
神奈川沖波裏、赤富士、富嶽三六景等の原画を楽しんだ。また力強い「肉筆画」には圧倒された。西洋画に無い独特の遠近感、画枠からはみ出す富士の山頂という独自の図法、江戸庶民の顔だけを幾つも描いた江戸漫画本など、日頃では目にしない葛飾北斎の神髄を見たような気がした。写真で伝えられないのが残念だ。

昼食、栗のモンブランケーキ(大きくて2人で1個)などを堪能し、3時ごろお開きとなり、それぞれ帰路についた。

  

    

 

  
 

家に籠りっきりの自粛生活から、急に解き放たれた「籠の鳥???」のように、日常であるべきものが、非日常に映り、絶品の料理と温泉、懐かしい友との尽きない話等々、心の高揚が、目を奪う暮れ行く秋の紅葉で、解き放たれたような時間の連続であった。また、若い頃には気付かなかった事や、興味が薄かった神社・仏閣などに心を奪われるようになった年齢を感じる時間でもあった。

またいつか、友と旅に出よう。 棚田記


なんとまあ、宣言解除で直ぐに 歩こう会がアルコール会に変身とは、羨ましい限りじゃのう!まあ、どげなもんか見てみようじゃないか。

鳩宿記
10月15日(金)は緊急事態宣言解除と「歩こう会」が、重なり、「アルコール会」になりました。天候は素晴らしい青空で、少し汗ばむ陽気でした。コースは、天神~(60分)~西南アクロスプラザ学食~(20分)~百道浜別荘コースです。
参加者は5名で、寄川君は藤崎から13:00百道浜別荘へ直行。田所さんは赤坂から西南アクロスプラザの学食へ、Parco組の稲永君、小西さん,鳩宿は、天神から西新の西南アクロスプラザで田所さんと合流。4名で昼食後、寄川君が待つ百道浜別荘へ12:50に着き、開宴。15:00終宴。
編:これだけ聞いたら健康的な歩こう会のようだが、、、健康的ついでに、最初に百道浜の写真を掲載する。
          
          
テラスから、能古島を遠く眺めて、穏やかな、はるかに澄んだ、碧い海。白いサラサラの砂のビーチバレーコートとのコントラストが美しく、まだ夏といった風情です。
編:なんとも、今の近代的な百道浜ではなく、昔の百道浜を思い出すな~~!!

西南アクロスプラザ
三者三様のメニューで、稲永君のチキンの地中海野菜チーズ焼き定食(¥460-)、小西さんの豚のスタミナ焼き定食(小飯¥440-)、田所さんのハンバーグジャポネソース定食(\460-)、鳩宿のかつ丼&ミニそば(¥480-)の学食を完食しました。ごちそうさまでした!美味しく、コスパな学食、みんなの胃袋も若っか~!健康バイ!
               編:アルコールは無かったとね?
                    

福岡タワー
全長234m、海浜タワーとしては日本一の高さ。福岡のシンボルとして市民に親しまれています。田所さんのスマートフォン(セルフタイマー)で、福岡タワーを背景に、自撮りの撮影に71歳が、チャレンジしましたよ~!地面に描かれている黄色い足型マークの場所に立つとよく撮れます。福岡タワーを訪れた際にはぜひぜひ利用してみてください!

       
  編:自撮りにしては、良い構図のよい写真じゃ! まさか右のカメラで撮ったちゃなかろうね?

百道浜別荘
素敵なロケーションの中、大手を振って、顔を突き合わせながら、語らいながら、美酒佳肴ができて、やっぱ素晴らしいか、ふるさとの福岡!
緊急事態宣言解除だけど、マスク、消毒はもちろん、大声を出さず、三密を避け、感染防止の注意が定着している我々です。
  

  

編:うむ、健康的に人生楽しんじょるな。71歳のジジ・ババには見えんが。60歳前のおじさん、おばさんに見えるが。博多は良かね~~!わし等も故郷に帰ったら、若返りそうな気がするばい。

寄川君のつぶやき
横浜、大阪、北京、成田、大連、東京、宇部で過ごした後、終の栖は福岡に落ち着いた。「歩こう会」を通して、改めて「安くて美味しい博多」「素朴で人情味の九州人」「間近の雄大な自然」・・・と、世界一の故郷を満喫している 編:世界一の故郷! いい言葉をつぶやいちょる!
田所さんのつぶやき
前回の百道浜ツアー、途中で断念した私です。9月、天神から西南学院大学まで歩く途中、軽い熱中症なのか、皆に遅れること20分、学食までで帰宅しました。今回は同じような気温でしたか風があり、順調に歩き、美味しい、コスパの良いランチを堪能、百道浜まで到達。心地よい風の中、久しぶりの会合になりました。途中、福岡タワー前で、タイマーって?インカメラかな?とワイワイガヤガヤ言いながら撮影に成功。タワー全体が写るスポットで撮影できました。71歳を迎える我々ですがもう少し、健康で壮年を謳歌しましょう!
編:タワーの写真、よか出来やったよ!わし等も健康で壮年を謳歌するか!
鳩のつぶやき
今日の「歩こう会」は、令和3年での41回目です。コロナ禍での厳しい環境の中、「ガオカ愛」をもって、毎週金曜日に明るく、楽しく、いきいきと「歩こう会」を続けています。「フレイル」対策に仲間と一緒に動き回りましょう!
編:41回目ね!フレイル対策には、持ってこいの企画じゃな~~。そげん事が出来る故郷は、遠くに有りて忍ぶだけか、いや、いつの日か帰るけん、その時は一緒にフレイル対策にしよう。

最後に、中止になりました同窓会の古希の記念品の写真(オリジナルマスクと白檀の匂いがする扇子)を掲載しています。

    


編:宣言は解除されたが、また第6波あ来るやも知れん。ばってん、健康な壮年をフレイル対策で謳歌する故郷の便りには、いつも懐かしい香りがして、楽しましてくれる。いつか皆で故郷で集まり、青春を思い出しながら、今を謳歌したいものだ。
正に、今を生きる!

福嶋記

令和3年9月24日(金)の歩こう会は、行実君案内による筑紫路堪能コースが企画されていたので参加した。

12時に西鉄二日市駅(東口)に7名(行実、稲永、小西、鳩宿、田所、高木、福嶋)が集合した。先ずは、「般若寺跡」まで坂道を昇っていく。(冒頭、今日は坂道がありますよォ~。と行実君の言葉がありましたね。)昇り始めはちょいときつかったです。

般若寺跡看板前に到着。行実君の解説に聞き入る。そして教会を横目に見ながら坂を上ると7重の塔が見えてきた。645年に孝徳天皇の病気が治るようにと建立されたものだ。
編:645年と言ったら、大化の改新の年じゃなかね

     
しっかり、登っとる!                                教会があるとね、へ~~。

 

再び歩き始め、矢印看板を右手に曲がると、何?草むらと鳥居がみえる。そこは、菅原神社らしく建物の土台の基礎石があり、小さな祠には太宰府にちなんだ牛が祭ってあった。皆で参りそこを後にする。

  
                            こげな、うっそうとした緑、最近遭遇してないな。

         

やがて周辺の文化財案内の看板があり、ここまでの経路を確認した。予定では、右の「紅姫(菅原道真の幼子)供養塔」に行くはずだったが、時間の関係で次回にすることになった。そのまま左手を進む。良さげな喫茶店「PORE PORE」を横目に見ながら、西鉄太宰府線を横切って線路沿いを進むと、前回通った「どんかん道」解説板を過ぎる。

 
                               なんか、ゴルフ場の休憩所みたいだな。
      

正面に観世音寺が見えてきた。そのまま直進し、戒壇院も見えてきた。景観が良いので入ってみたくなるが、行かず。道路脇には、オレンジ色の彼岸花が咲いている。(正式名は、彼岸花ではないかもしれが・・・。)

   

  
                        郷愁をそそるな~~

大宰府政庁跡案内板を通り過ぎると、左手に見える竹林や柳の下を行く二人は、フランス絵画に出てきそうなシルエットだ。この感じは、さすが太宰府の趣だ。

 

               
             二人の姿が、もうちょっと大きく写っとったら、フランス絵画にならんばい!

そうするうちに「学業院中学校」の門の前に来た。凄く由緒ある門構えだ。ここを出た諸君は、この重みを感じながら通っていたのかな?さぞかし自慢の学校だろう。

           

少し先には「水城小学校」があり、これまた負けない門構えだ。地面のマンホールの蓋は梅である。
   

歩道橋を渡ると、鳥居と常夜灯があり、解説版があった。ここは、日田街道と太宰府天満宮への分岐点だそうで、福岡側から来た参拝者が最初にくぐる鳥居だそうです。傍らにある道標は、黒田藩の第11代藩主が建てた市内で最も古いもので、「是よりだざいふ参道」と刻まれています。常夜灯は、九百年大祭にあわせて建立され、戦前まで毎晩火が灯されていたそうです。この鳥居をくぐり、身を清めた人々は、参道沿いの都府楼跡や観世音寺を見ながら天満宮を目指したそうです。

  

関屋橋を渡って、目的地おばんざい「えん家」に約一時間で到着。この店の予約をしてくれた常連の寄川君と合流。少し遅れて高田君も着て、新鮮な魚の刺身定食を頂く。珍しい脂がのった沖縄の魚や、味の造り、カワハギの刺身等旨かった。東京では、この値段ではとても味わえないものだった。感謝感謝。やっぱ博多が一番たい。 

      

                
                      酒が無くて残念だったね。

          そして帰りに恒例の集合写真で解散となった。背中の校歌で筑高万歳。
          
   

                

編:福嶋君ありがとう。よか旅やったね。やっぱり博多が一番たい! 10月1日から宣言が解禁になって、酒が飲めるごとなったばってん、まだまだ感染には十分気を付けて、博多を満喫して、東京に帰ったら話ば聞かせてくれんね。



第77便への反響を頂きました

◆「今をいきる」見ました。
昨日NHKの台風🍃🌀☔情報を見ていたら、一段落して「日本人のお名前」の再放送が始まり福岡と博多の事だと分かり、急いで録画しました。その後、メールで「今をいきる」の案内が届き、今日筑紫丘21を開いて見ました。
イヤー、カバの纏めは抜群ですね‼️感心しました。

◆詳細な報告ありがとう。よくこれだけ膨らませられるなァ~、感心する。楽しく読ませてもらいました。俺も番組は見ましたよ。面白かった。
確かに出身は?と聞かれると「博多。」と言ってしまうね。若い頃は、「???」とされる事が多く「福岡」と言うと「ああ!」と。😂
博多の由来は、4つ聞いた事があります。海岸線から広がりが鳥の羽を伸ばした形に似ていて「羽形」とか「にわか煎餅」に由来を書いた紙が入っていた気がします。
饂飩の石碑と石垣の場所は、ウォーキングで稲永君に教えてもらうまで知らんやった。
おきゅうとの由来は、勉強になった。油山の由来は、知らんやった。福大に通っていたのに恥ずかしい。
昔の博多駅は、ポツンとあるイメージしかなかったね。西鉄沿線に住んでいたので、当時は馴染みが薄かった。田舎もんが通る駅としか思ってなかった。
スポーツセンターは、天神にある処しか知らん。スケートに行って記憶がある。
最近のコミックで、伽耶の国の話が出ていたね。可也山の由来だとは知らなんだ。
まだまだ博多の知らん事が多すぎる。死ぬまで勉強せなならん。

◆楽しく拝読しました。
福岡、博多、の違いは折に触れテレビなどで見て知ってるつもりでした。
でも事細かに整理して説明(翻訳)した文章は分かりやすく、再度福岡の素晴らしさを認識させられました。
昨日、武田鉄矢が番組で、日本を裏から襲う台風に怒ってました。糸島から台風が入ってくるのはケシカラン、と。実際は台風は宗像から入ったけど、鉄矢もまだまだ博多大好き、ですね。
福岡県の入口、博多駅、そして福岡空港。施設のネーミングにも色々な思いがあるのでしょうね。ここ2年中止の山笠も、博多部と本番には通らない福岡部、長い歴史があります。
福岡以外に長い皆様の博多を愛する気持ちが伝わる文章でした。

◆出身はと聞かれたら、私は福岡と答えます。ご先祖が福岡藩の武家だったから。

◆実は中学のHPにも、同じような記事を載せ、反響があった中で、面白い記事を送ってくれたので、紹介します(一人の男性からの話です)

棚田:私は 出身はと聞かれたら、博多!と答えてます。(笑)うどんは博多うどんの汁が一番うまい。ごぼう天乗せてね!!
因幡うどん懐かしいな。東京のうどんは出汁が醤油で真っ黒、やはり博多うどんの出汁でないと、食べた気がしない。食べたか!

HP 最新版楽しく拝見しました。君の記事で武田鉄矢と、因幡うどんを見て、ふと思い出しました。
記事を読んでいて昔の事を懐かしく思い出しました。
最近は丸亀製麺等の腰のあるうどんが有名になっていますが、私はやはり博多うどんのほうが好きです。又、記事を楽しみにしています。
大学を卒業してゼネコンに就職し、東京本社勤務になり三年程東京にいました。その後、大阪、広島等の転勤を経験しました。それから人生はいろいろあるのですが、それは置いていて、本題は東京生活での事です。
同じ大学の別学科の同期の友達が、入社して何ヵ月か経った頃、
「今度妹の彼氏と顔合わせせないかんけど、余り気が進まんのや!相手が誰と思う?」
と愚痴をこぼしたのです。
相手は、当時はまだ駆け出しで、少しずつ名が売れてきた、何と
武田鉄矢だったのです。
友達の姓は、山田で福岡出身で、武田鉄矢の奥さんの旧姓が山田ですから、間違いないでしょう!(確認済)
武田鉄矢は私達より一才年上です。

後一つは、大学の教養学部の頃の思い出です。
入学して2ヶ月位で全学ストライキになり、授業もストップしていたので、結構無駄な時間を過ごしていました。ただ訳のわからない学生集会やデモに参加したり、短期のアルバイト等をしていました。
その中で、よく思い出すのが、ある娘の家庭教師のアルバイトです。その娘は、確か高校生で次女だったと思います。夏休み期間中で、二時間程度の授業が終わった頃、夏休みで帰省していた姉が、飲み物とお菓子を持ってきて、とりとめの無い話をして下がっていました。
その娘達は、因幡うどんの社長の子供だったのです。
友人三人とアルバイトの面接を受けて、友人二人は、因幡うどん店内で働き、私は家庭教師に割り当てられたのです。
博多に帰る時には、博多駅地下の因幡うどんによく入り、当時のことを思い出します。

編:福岡、博多 色々あるね。外様の私にとっては、非常に興味深い話題です。

コロナも少しは収まってきたような感じもあるが、まだまだ予断を許さない状況。
皆さんは、元気にやっている事と思います。

さて、NHK 日本人のお名前という番組で、福岡・博多が取り上げられた。ゲストは地元有名人 ゴリけん。
(私を含めて外様の人たちには馴染み無いかも知れないが、祇園山笠の飾り山にもなった芸人らしい)
私も、福岡・博多出身者として、知らない事が多かった。何回も見て、以下に番組の話を纏めてみた。
少し長くなるし、知っとる人もおるやろうが、知らんかった人もいると思うけん読んでみて下さい。

◆行政的には福岡県、福岡市だけど、博多の名前が行政的に残っているのは 博多区だけと言う事にお気付きあろうか? なのに、ものの名前には、99% 博多が付いている。博多駅、博多弁、博多ラーメン、博多どんたく、博多祇園山笠、博多万能ネギ、博多あまおう(いちご) 等々。博多名物「もつ鍋」もあるが、これは我々の時代以降に作られた名物で、我々の当時は、博多は「鳥の水炊き」だったよな。しかし福岡・・・・と言うブランドネームは、あまり聞いたことが無い。
ゴリけんが、アナウサーと中央区に行って街で、「博多・・・」 と「福岡・・・」の広告、店、物等を探した。
結果 ほとんどが「博多・・・」で「福岡・・・」は2件だけだった。(編:銀行は福岡銀行だよね、後は・・・会社福岡支店、等々)。 インタビューによると、「福岡よりも博多の方が、県外にもインパクトが強く、ネームブランドとしての役割が大きい」

◆では、博多と言う言葉とは? 福岡より「歴史が長い」。現存で一番古いのは、1200年前 759年の「続日本記」に、「博多大津」という、博多湾全体を表わす言葉が記録されている。(編:645年が大化の改新だから、ほぼ100年後には、博多という言葉が使われていたことになる)。それでは、その由来はと言う事で、ゴリけん達は和白の干潟に行く。
そこでの問答で、 は=はく(泊) + かた(潟)、➡ 多くのまる ➡ つまり はくかた・「泊潟」が由来とされている。その後、「土地、(ひろ)く、人や物が()い」という博多になったと伝えられている。玄界灘の荒波も湾内に入ると穏やかな海となり、何本もの河(御笠川、多々良川、那珂川、室見川)が流れ込むところに潟が出来、船溜まりが出来、天然の良港になった。(編:世界的な船会社に勤めていた私は、そうやろう、そうやろう、博多は世界への玄関港だよ、と咄嗟に思ってしまった) 以降、番組も、それを証明するように進む。

◆今の長浜近くに、大宰府の外交出先機関である「鴻臚館」が置かれていて、港とし朝鮮・中国との交易を取り仕切っていたが、11世紀に燃えてしまい、以後外交出先機関は博多区の箱崎あたり(御笠川、住吉神社の近く、今の箱崎港の辺りと思われる)に移り、港として交易で栄え、所謂 博多商人(国際貿易の担い手)が富を大きくしていき、国際都市 博多になった。

◆江戸になると、博多にライバルが現れた。中央区、お城から2.3Km離れた川沿いに小さな石垣跡が残っている(編:私は知らなかった)。これは、400年前に黒田長政が福岡城を築いた時、長政の出身地、「岡山の備前福岡」に因んで「福岡(藩)」と名付けた「福岡・武士の街」と「博多」を分ける石垣だと言われている。ここに、博多(商人)・東と、福岡(武士)・西という地区分けが出来た。福岡と言う、それまで馴染みのない地名が、新しい支配者と共に誕生した(編:これは誰でも知っているよな)。博多は1,200年以上前、福岡は400年前、と言う事だ。

◆ゴリけんは、博多の重鎮、長谷川法世(博多っ子純情などで有名な漫画家)を訪ねる。そこで、福岡市の由来お名前バトルを知る。明治22年、市議会は市政の名前で、福岡市か博多市かの大論争が起き、名前バトルが始まった。当然、当時住民数が多かった博多は、福岡市に大反対、博多を分離独立させようと言う機運まで起こった。そして投票になった。結果は13票:13票.ところが議長が福岡に最後の1票を入れて 14票:13票で福岡市になった。議長は元福岡藩士だった!!! 議長の提案で、当時新しく出来た鉄道の駅を「博多駅」と名付け、博多の名前を残すから、と言う事で 博多派を説得したらしい。
83年後、1972年 福岡が政令指定都市になった時、行政名として「博多区」が誕生、1975年新幹線の駅も「博多駅」となった。(編:昔の博多駅は今の駅より、呉服町寄り、櫛田神社に近い方にあり、横には福岡スポーツセンターがあったと記憶しているが、小学校の頃は東住吉(麺処かわべの近く)だったので、今の博多駅の建設現場で遊んでいた)

次に「福岡・博多発祥」のものを説明する。

◆おきゅーと:これは江戸中期飢饉で食べ物が無かった時、海藻から作ったおきゅーとが、人々を救った。
救う人➡きゅーと➡ お救人(おきゅーと)が由来らしい。(編:今や東京のイオンにも、おきゅーとは売っている、嬉しか)

◆明太子:朝鮮では、「すけとうだら」の事を 明太魚(ミョンテ)という。 ミョンテの子(魚卵)だから、明太子。 (編:韓国では明太子は韓国発祥と騒いでいるらしいが、日本に帰化した朝鮮人が博多で作った、と言うのが 本当に思える)

◆饂飩(うどん):地元民だけでなく、出身者も饂飩にはプライドがあり、拘るが、うどんは博多区にある「承天寺」の聖一国師が中国に渡り、製粉・製麺技術を学び、帰国後うどんと作った。(編:我が故郷が饂飩の発祥地だとは知らなかった)

◆椿(つばき)油:6世紀当時は、油と言うと動物系油・ゴマ油しかなかったが、インドから来た清賀上人が油山に油山観音を作り、椿を精製し、つばき油を作り、灯明や燃料の他に、化粧油として盛んになり、中国・朝鮮にも輸出(油出??)された。つばきの森という石碑もある。これも博多が日本の貿易港としての外国との繋がり、インタ―ナショナルを示す事実である。(編:油山は小・中学校の頃良く行ったが、椿油の発祥地とは知らなかった。でも油山は懐かしい)

◆皆は、「映えスポット」「福岡のハワイ」って知っとーや? 
そう「糸島」の事。今栄えて注目を浴びているらしい。牡蠣小屋も有るしね。
イギリスの情報誌で 2021年「輝く小さな街」ランキングで、糸島が世界第3位になったらしい。

以下は糸島の講釈

◆糸島の由来は、魏志倭人伝の「伊都国」だそうだ。卑弥呼が外交拠点を置いたという説もある。
糸島には、「芥屋の大門」があるが、そこから見える「可也山(かやさん):糸島富士」が見えるが、
3-6世紀ごろ、百済、新羅の南(今の釜山に近い所)に「伽耶(かや)」という地区があって、鉄資源が多く、日本とも交易をしていた。伽耶➡可也という説。また芥屋も朝鮮半島に由来するらしい。 またこの「文化の流入」を示す遺跡が糸島の内陸部にある。それは小さな木立に囲まれた、1-2mくらいの平たい大きな石がいくつかある所。その石は、2,500年前のドルメン(支石墓)と言いヨーロッパでもインドでも同様のドルメンが発見されているが、朝鮮半島に多いという。 当然糸島のドルメン・石墓の下には今でも当時の人が眠っていると言う。

◆こうして見てみると、我が故郷は、「古来から朝鮮・中国を通じて大陸にも繋がる玄関口として、稲作・製鉄技術等が流入し、日本の文明が一番最初に始まった地域であると言っても過言ではない」、「博多・福岡ぬきに、日本の発展は語れない」と番組では結んでいる。

◆ゴリけんが武田鉄矢と糸島に行った時、
武田:「糸島で何が生まれたか、知っとーや?」
ゴリ:「分かりません」
武田:「日本たい!

番組内容を文字で伝えるのは、文章の練りに時間がかかったが、故郷を離れて幾千里、長い時を経て、歳とともに故郷への憧憬が増してきた自分が、如何に故郷を知らないか、を知らされた番組であった。
お前そんな事も知らんかったとや!と言われそうだが、知って良かったと思うし、孫にも誇らし気に話してやりたいし、自分が、英語を学び、海外の仕事を目指したのも、福岡・博多人としての血かな?とも思える。

皆は、特に外様の人たちは、どげん思う?
棚田記


高田君からのレポートです。

参加者:行賓、稲永、福島、鳩宿、田所、本吉、高田、森賓、小西

大雨も終わり夏の日差しが戻った8月27日12時、例の西鉄二日市駅東口に8名が集まった。福岡県は8月17日に緊急事態宣言が発令された中での歩こう会なので、今回はアルコール無し。ノンアルコール会でノン歩こう会ではない。
行賓君設定のどんかん道と桜並木を歩くコースで目的地の「おばんざい えん家」へと歩き始めた。
二日市駅東口を出ると特別史跡太宰府跡「客館跡」があが、跡だけで何もないので素通り、隊列は間延びが始まる。マイペースが高齢者の健康と長生きの秘訣らしいと後姿が言っている。少し歩いては行賓君の解説が入るので、集まってはまた歩きながら隊列は間延びを繰り返す。高齢者は繰り返す。
さすが大宰府は道真公ゆかりの地に因んだ史跡が多い。前回も通った榎社もそうだが、どんかん道にあり、途中に は解説板も設置したあり歩きながら歴史散歩ができる。道標の石碑を過ぎて川洽いの桜並木を歩きながら「おばんざい」へ。

  

 

川の流れにサギを見たり、桜並木の木陰が真夏の散歩にひと時涼をもたらすが、過ぎると汗が噴き出す。心地よい秋が待ち遠しい。どんかん道の半分も歩いていないが、秋の神幸式大祭で練り歩くどんかん道を隊列を崩しながら歩いた。秋が雰囲気を味わえるような気がするので次回に期待。
今回の筑紫路堪能コースは時間となり、昼食会場へ午後2時過ぎに着いた。小西さんがお待ちかねだった。千円のランチ4種類があり、先に言ったが勝ちで、それぞれ選んだが、人がいい僕は最後だった。人がいいだけは自慢にはならない。
最後だったがノンアルコールを一人だけ頼んだ。注文すれば出してくれるのに皆は我慢する。アルコールじやないと飲まないか、ノンアルコールでも飲むか選択肢があるが、一人だけ団体行勣ではなかった。
今回、母親の事情で参加できなかった寄川君が4名で予約したため仕入れに混乱をきたしたようで、次回から予約人数確認のため筑紫路堪能コース参加者は返事をすることになった。次回は9月24日(金)西鉄二日市駅東口12時集合。東口~般若寺~五重塔~紅姫供養塔~市役所~えん家、の予定。
  
 
      

               全部味見、つまみ食いしてみたいランチだった。

福岡は4回目の緊急事態宣言が延長されそうな雰囲気、、、終息の期待を待ちながら2年近くがたった。ワクチン接種が終わったのに自由にならないストレス、生活に響く人はなおさらだと思う。 12歳以下の接種が11月で終わる事を期待し、12月には集団免疫で規制解除、ストレスフリーの隠居を希望いたします。

   

編:今回は参加者も多く、しかし相変わらず「酒無し」で、それでも「歩く」を堪能している。いいね。地元にいる時は、筑紫路なんて考えても、思ってもみなかった高校時代だが、年取ると、そういう言葉に魅かれて散策してみようと言う気になるのだろうな。2回接種が終わっても、感染する事はするので、極力気を付けながら、散策を楽しんで下さい。

帰福している福嶋君が、沢山の写真と文で投稿してくれた。
在福の仲間も、望郷の友も、志賀島は行ったことあるが、詳しく見て回った人は少ないのではないかな?
全国的に感染拡大で、外出も儘ならないなか、故郷志賀島を改めて旅してみよう。

8月20日(金)の歩こう会は、志賀島ツアーが企画されたので参加した。
9時に天神のパルコ前に3名(稲永、鳩宿、福嶋)集合し、呉服町経由で博多ふ頭まで歩く。(残念ながら小西さん体調不良でお休みばい。何と寂しかこつ。)予定より遅れてしまい、予定の船出港2分前に到着。先に到着していた寄川君は、我らの顔を見て乗船。乗船券を急いで購入して乗ると、船はすぐに出港した。(余裕で間に合うはずだったのにギリギリやった、良かったァ~。)長雨の後の曇り空、雨が降らないことを祈りつつ博多湾を航行していく。やはり海風は気持ちよかァ~!快適な乗り心地だ。博多タワーがあっという間に小さくなっていく。
     

            

能古島を横目に見ながら、西戸崎に寄港した後、志賀島港へ到着。所要時間は30分。乗船券は回収。(記念に欲しかったなぁ~。)
                 
下船後、直進するとすぐに鳥居が見えてきた。志賀海神社参道の石碑と志賀島の案内図がある。
                

          

10分程歩くと神社の昇り階段に到着。御汐井(清めの砂)が置いてあり、左、右、左と清めて階段を上がっていくと竜神の燈篭もある。
更に奥へと進むと正門があり、渡り禁止の縄が貼ってある危険な石橋を迂回しながら門を入っていく。

     

                 

            左手に社務所があり、鳩谷君が御朱印帳に記帳をして貰っていた。
                    鳩宿君のつぶやき

「【志賀海神社の御朱印】初穂料が、500円になっていた。昨年迄は、300円だったらしい。コロナ禍の影響?・・まぁ、しょんない。金印の押してある素敵な挟み紙が、朱印だけのシンプルな伊勢神宮の御朱印を思い出させてくれた。一期一会の良縁の御朱印に感謝ばい


                 
                        閑話休題

志賀海神社は、神代より博多湾の総鎮守として志賀島に鎮座し、厚く信仰されている。海の底、中、表を守り給う海の主宰神として、海上交通の安全をはじめ塩・魚介類といった海産物の御恵をもたらす神と篤く信仰され、禊祓の神として不浄や災厄を祓い清め、さらに水と塩(潮)を支配し、潮の満干によって人の生死をも司るとされることから人の命や生活の吉凶をも左右するとされている御祭神「綿津見三神」を奉祭している。
右手に行くと、本殿と鹿角堂がみえる。本殿に参った後、シカの銅像とおびただしい数の鹿の角を収めた鹿角堂を見て、思わず「すごか~!」。その昔、この角を盗もうとした罰当りな族がいたそうな。漢方薬屋にでも売るつもりやったっちゃろうか

  
                             編:いやいや、右の写真の鹿角堂の、角の数はすごか!

350年前に戦国大名による寄進により再興した社殿を一周して、宝物殿を見学した。そこには、竜神に由来する鮮やかな掛け軸や絵が展示されとる。
         

最後にトイレに寄ると、何と!「サワ蟹」君が歩いているではないか。近くの沢から迷い込んだのかな?「唐揚げにしたら旨そうやね!」と思った瞬間、「神の化身」だ!と思い直し、とんだ不心得者になるとこやった。(なので写真なし)
       
編:生き物愛護とは違う、信心深さかな?よかよか!

次に向かったのが「金印公園」。(寄川君はここで席取と称して先に博多港に戻った。)能古島を横目に見ながら海岸線を歩くこと25分で到着。稲さんに「階段にするや?スロープにするや?」選択を許され、迷わず「スロープ!」と応えるも、最後は階段でやった。(降りる時は、全部スロープやったけどね。編:それでよか!無理したらいかん!)

        
                            編:この階段は、高齢者にはきつそうだね。

上がると見晴らしが良い。皆ベンチで一服する。(持ってきた関ぶどう園のブドウを頂く。)金印のモニュメントと大きさや用途を書いた解説案内を読み、眺望を楽んで、入口まで戻る。(写真19,20,21)

     

  

船の時間の都合で、その先にある「蒙古塚」を諦めて来た道を戻る。途中、船を降りた時に係員が言っていた事を思い出し、相撲の元横綱”曙”がよく来たという「中西食堂」に寄ってみると、若者が並んでいた。サザエ丼が旨いらしい。(食べたかったなァ~。

 

早めに着いた港で出港を待つ間、喉を潤したり、ソフトクリームを味わったりしていた。船に乗り込んだのは、我ら3人だったので、係の人に写真をお願いする。

  

帰りに振り向くと青空が見えていて、雨が降らなく幸いやった。途中、福岡ドームの屋根に太陽が反射して素敵な光景やなァ~。港が近づくと、コロナ禍で就航が未定のままになっている「クイーンビートル」の赤い色が、心なしか寂しそうに見えた。

              

 

程なくベイサイドプレイス博多に到着。酒の提供がない居酒屋「豊一」で、寄川君が席取をして待っていた。旨い寿司や海鮮丼に舌鼓をを打ちながら、次回の予定を確認。

          

帰りは天神まで皆で歩き、解散となった。(寄川君、今回写った写真が無くてすまん。)
次回は、行実君企画の二日市散策の旅である。これまた楽しみである。

故郷を守り、いつもながらに心広く迎えてくれる友に感謝、感謝です。ありがとう。

(2021,8,20 福嶋記)

編:久し振りの紀行文と写真ありがとう。志賀島の知らん所ばかりやった。



以下が、YAHOOに載っていた記事。
タモリの司会起用に周囲は「猛反対の嵐」…それでも『笑っていいとも!』が大成功した“決定的理由”とは

学費未納で抹席処分となり、叔父に連れ戻される形で地元・福岡へと戻っていたタモリが二度目の上京を果たすのは1975年のことだった。『笑っていいとも!』の初回放送は1982年。この間の7年強、タモリはどのように過ごし、どのようにお昼の帯番組の司会者という名誉ある仕事を勝ち取ったのだろうか。  社会学者の太田省一氏の著書『 すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった 』(ちくま新書)の一部を抜粋し、芸人としての活躍の足跡を振り返る。(全3回の1回目/ 2回目 ・ 3回目 を読む) ◆◆◆

遅れてきた大学生

 一度目の上京と二度目の上京の間に、日本社会は大きく変わっていた。  一度目に上京した時の日本は、高度経済成長の真っただ中だった。二度目に上京した1975年は、高度経済成長の終わりがはっきりした年だった。前年の74年に戦後初のマイナス成長を記録したことが、翌75年に発表されたのである。奇跡とも呼ばれた高度経済成長によって、国民の生活は全体に豊かになった。だが、その一方で経済成長という国民共通の目標は失われ、この時期から、豊かさを背景に個人の生き方を優先する価値観が強まっていく。  1975年に大学へ現役で入学したのは、1956(昭和31)年生まれの人々である。この年の大学・短期大学進学率は38.4%で、高度経済成長期に始まった進学率の上昇がピークに達した年でもあった。4割弱の人たちが大学に進学する高学歴社会の誕生である。  1950年代後半(昭和30年代前半)生まれの若者は、「しらけ世代」と呼ばれた。60年代末の学生運動の熱気が去った後に入学してきたこの世代は、政治・社会の情勢に無関心で、私生活のことにしか関心がないとみられていた。  同じようなニュアンスは、この世代のもう一つの呼び名となった「モラトリアム世代」にもこめられている。心理学者・小此木啓吾の『モラトリアム人間の時代』(1978)がベストセラーになったことで広まったこの呼び方は、大学生を中心とした若者のあり方を批判的に表現したものだった。 「モラトリアム」とは本来、「支払い猶予」を意味する経済用語である。それが心理学の用語に転用され、大人への「猶予期間」、つまり、社会に出ることを先延ばしして一時の自由に浸ることのできる期間という意味になった。そのような若者にとって、大学は勉学の場というよりも、遊びの場となる。そしてその象徴が、同好の仲間が集うサークルであった。  タモリが二度目の上京を果たしたのは、そのような時代だった。もちろん今度は、大学生になるためではなかった。しかしそこには、途中でやめた大学生生活のやり直しという側面が少なからずあったように思われる。  例えば赤塚不二夫宅での居候生活は、大学生の下宿生活のようなものであり、スナック「ジャックの豆の木」での密室芸の披露は、サークル活動のようなものだったと言えるだろう。モダンジャズ研究会のように、楽器を持ってのセッションではなかったが、そこでは即興芸によるセッションが連日のように繰り広げられた。

こうしてタモリは、かつて中途でやめたサークル活動をやり直すかたちとなった。タモリはいわば「遅れてきた大学生」であった。しかもこのとき、多くの若者は、勤勉さではなく遊び心を重視するようになっていた。つまり、タモリの生き方がすんなりと受け入れられる時代が来ていたのである。タモリが大学生をはじめとした若者たちから支持される条件は整っていた。  1958年生まれで、「しらけ世代」に属する評論家の坪内祐三は、こう述べる。「私たちシラケ世代は実は、本当はシラケていなかった(シラケたふりをしていたのだ)。だからそのシラケが攻撃に転じることもあった」(坪内『昭和の子供だ君たちも』)。  この同世代評は、タモリによる密室芸の評にそのまま当てはまる。でたらめ外国語にせよハナモゲラ語にせよ、タモリの芸は、多くの人が指摘するように、冷静な観察眼から発している。それは、当事者ではなく傍観者の立ち位置にいるということである。その意味ではタモリは「シラケて」いる。  しかし、坪内が指摘するように、シラケが攻撃に転じることもある。例えば、四カ国語麻雀のネタで、チョンボから大ゲンカになるという場面では、当初そこに仲裁に入るのは田中角栄や昭和天皇という設定になっていた。権威をパロディ化するというかたちで「シラケが攻撃に転じた」のである。いわばタモリは、早すぎた「しらけ世代」でもあった。

「恐怖の密室芸人」

 上京後まもないタモリの密室芸を見た芸能関係者の間では、「やりたいことはわかる。だが、これをどう展開させるかというと非常に厳しい」という意見が強かったという。陶器のでたらめな歴史をもっともらしく解説してみせるNHK教育テレビの教養番組のパロディネタ「陶器の変遷」などをタモリがNHK関係者の前で披露しても、よく通じなかった。  しかし、先ほども述べたように、かつての時代と違って、タモリが若者に支持される条件は整いつつあった。  70年代後半、タモリはテレビやラジオに進出し始める。印象の薄い容姿をカバーするために、レイバンのサングラスに髪は真ん中分けというスタイルになったのも、この頃である。76年4月には東京12チャンネル(現・テレビ東京)『空飛ぶモンティ・パイソン』で初レギュラー、同年10月からはニッポン放送『オールナイトニッポン』のパーソナリティとなった。さらに本節の冒頭でもふれた人気番組『金曜10時!うわさのチャンネル‼』のレギュラー出演の話も舞い込んだ。  この頃からタモリの密室芸は各所で話題になり始めた。「恐怖の密室芸人」という異名も生まれ、雑誌などマスコミでも盛んに取り上げられるようになった。1979年にはNHKのバラエティ番組『ばらえていテレビファソラシド』にレギュラー出演。好感度を重視するはずのお堅いNHKが抜擢したことでも話題を呼んだ。これをきっかけに、『NHK紅白歌合戦』の応援ゲストの常連にもなった(1983年には総合司会まで務めることになった)。

こうして、タモリの存在は広く知られるようになっていったが、きわどい芸風は健在だった。それが最も発揮されたのは、アルバムである。音楽と言葉による強烈なパロディの数々がそこには詰め込まれ、当時のタモリの芸のエッセンスを堪能することができる。例えば、1977年にリリースされた初アルバム『TAMORI』には、「ハナモゲラ相撲中継」、中洲産業大学ネタの「教養講座“日本ジャズ界の変遷”、NHK「ひるのいこい」のパロディ、さらに『オールナイトニッポン』のエンディングでもおなじみになった、アフリカ民族音楽にタモリがでたらめな詞をつけた「ソバヤ」が収録されている。  3枚目のアルバム『TAMORI3―戦後日本歌謡史―』(1981)に至っては、パロディの過激さゆえに当初、発売禁止となった。内容は副題にあるように、戦後歌謡史をまるごとパロディ化した意欲的なものである。1945年、マッカーサーならぬマツカサが厚木ならぬ薄木に到着したところから始まり、各年代のヒット歌謡曲と当時の世相がまるごとパロディで表現されていく。それも、「東京ブギウギ」が「入院ブギウギ」、「バラが咲いた」が「ハラをサイタ」になるなど、毒気に溢れるものばかりであった。

変わらぬ趣味人

 そこに一大転機がやってくる。フジテレビ『笑っていいとも!』のメイン司会に起用されたのである。1982年のことだった。  タモリは「恐怖の密室芸人」として、大学生など若者を中心に絶大な人気を博していた。だが、お昼の12時からの番組となると、視聴者は主婦層が中心である。その時間帯の番組では、各局とも品行方正で建前的なことしか言わないタレントやアナウンサーが司会を務めていた。タモリはそれと正反対の存在だったわけで、その起用は、危ぶむような驚きの声で迎えられた。番組プロデューサーだった横澤彪は、「ワースト・タレントの大本命だった」タモリの起用に対して、「猛反対の嵐」が周囲から巻き起こったと述懐している(横澤『犬も歩けばプロデューサー 私的なメディア進化論』)。  しかし案に相違し、『笑っていいとも!』は結局、32年も続く長寿番組となり、日本のお昼を代表するテレビ番組になった。司会を務めたタモリの存在は、この番組を通じて一躍、全国的に知られるようになった。『笑っていいとも!』でタモリは、それまでの毒のある芸風を抑えてうまくお昼という時間帯に適応したとされる。実際、作家の小林信彦もこう指摘する。「タモリは、発想の根本にある〈差別〉を薄め、(中略)「笑っていいとも!」の〈無害な〉司会者として〈成功〉した」(小林『現代〈死語〉ノートⅡ』)。  確かにそういう面はあるだろう。しかし、私たちが想像する以上にタモリはずっと変わらなかったと見るべきではないだろうか。言い換えれば、タモリにとって「差別」や「毒」といった要素は、実はそれほど本質的ではなかったのではないか?

ここまで述べてきたように、タモリという人間の根底にあるのは、社会のルールや常識とは無関係に面白がりたいという姿勢だ。そこには、ルールや常識を押し付けてくる権力や権威への嫌悪感もあるだろう。その嫌悪感が、「しらけ世代」のように攻撃に転じる場合もあるだろう。だがそれは、権力や権威の理不尽さを告発することがベースにある社会風刺と似ているようで異なる。むしろそこにあるのは、わかる人とだけ一緒に楽しむセッション的な関係性への純粋な非社会的欲望だ。 『いいとも』の初期に「名古屋ネタ」というものがあった。日本有数の大都市であるものの、田舎っぽさが見え隠れする名古屋の風土を「エビフリャー」などと誇張した方言でタモリがネタにして話題になった。  これなども本来はマニアックなネタである。今でこそ地域ネタはバラエティ番組の定番だが、当時はそれほどメジャーなものではなかった。にもかかわらず、タモリのマニアックな視点は世間に受け入れられた。それだけではない。文化人が言いそうな難解な言い回しをアドリブで語る思想物まねも、タモリならではのマニアックなネタだが、劇作家・詩人の寺山修司や作家・野坂昭如の思想物まねで、当時のインスタントラーメンのCMに出演してもいる。  要するに、変わったのはタモリではなく社会のほうだった。タモリ自身は、ずっと変わらぬ趣味人だった。  ここで「趣味」という言葉には説明が必要だろう。一般的な趣味のイメージは、仕事や家事を済ませた余暇にやる遊びのことだろう。だがタモリの場合は、趣味が人生のすべて、つまり生き方そのものである。主従の関係でいえば、趣味は従ではなく、主。タモリにおいては両者の関係が逆転している。

タモリに憧れるモラトリアム世代の若者たち

 それは、「しらけ世代」であり「モラトリアム世代」でもあった当時の若者にとって、憧れを強くかきたてられる生き方だった。1980年代には、大学生が勉学や修養よりもサークルやコンパなど遊興に明け暮れる大学のレジャーランド化が批判されもした。しかし、“一生モラトリアム”は、当時の大学生やその世代の若者たちにとって、偽らざる生き方の理想でもあったはずだ。「遅れてきた大学生」としてすでに大人の年齢になっていたタモリは、まさにそれを体現する存在に見えたのである。  1980年頃、『タモリのオールナイトニッポン』で企画されたイベント「中洲産業大学夏期講座」などは、その意味で象徴的だ。講師陣にはタモリをはじめ、赤塚不二夫や山下洋輔らが顔をそろえ、入試に合格した者だけに受講資格が与えられる。期間は1週間だったが、50~60人の定員のところに2万5000人もの応募があった。  いわば“大学ごっこ”だが、それはレジャーランド化した大学そのものとも言える。実際、夏期講座の模様が放送された4時間のうち、後半の2時間は、その場にいる人間が「ソバヤ」を唱和するというお祭り騒ぎになった。その盛り上がりからは、大学生世代の若者のタモリという存在への憧れが伝わってくる。


(紅蓉軒コースで公会堂貴賓館を観覧!)
福嶋君が2回目のワクチンを終えて、帰福して、歩こう会に参加した。
鳩宿君のレポート
蔓延防止前の、7月16日(金)の歩こう会は、紅蓉軒12:00集合。
藤崎組の寄川君は直行。Parco組は6名(帰福の福島君、本吉君、稲永君、田所さん、小西さん、鳩宿)は12:00天神Parcoに集合。公会堂貴賓館~オオトリ顔出し~紅蓉軒のルート。

旧福岡県公会堂貴賓館
1919年(明治4年)福岡市の近代都市および九州の中枢化に成長する出発点のシンボルとしてモニュメント的な木造建物で、天神中央公園に位置する国の重要文化財建物。
ビデオで当時の中洲通りと貴賓館のフレンチルネッサンス様式を堪能することができた。(65歳以上無料)

            


      


編:文化施設を訪ねるのは、地元民とて知らない地元を発見できる。ビデオで当時の中州通りを、、、、って、1919年の当時と言う事?もしそうなら、それを見たことある博多人は少ないのでは?生まれ育った地元を見直すのも、我々高齢者の特権かな?

オオトリ酒店への顔出し
大取夫妻に、挨拶して紅蓉軒に向かう。(夫妻の写真撮るのを忘れた次回を楽しみに!)
小西さんが、重たいのに、日本酒を購入。田所さんが、ビールを発送してもらっていた。さすが、博多ごりょんさんの優しさ!紅蓉軒(ビートルズの曲が流れる街の中華料理屋さん)エビスビールで、乾杯!(コロナに負けず、頑張ろう!)タコとズッキーニの山椒油和え、ヤリイカと九条葱の油和え、冬瓜とエビのごま油和え(三種盛、)天然鯛のカルパッチョ(店のサービス一品)とパリパリ焼きそば、を肴に、紹興市の紹興酒1本を飲み干す。



 

 

最後は、田所さん所望のカリカリのイモあめ(食べるにはスピードが勝負!)

今日のランチのお値段一人1,800-(皆さん大満足!)

            福嶋君からのコメント
      

鳩のつぶやき
毎年、関ぶどう園の手伝いのために帰福する福島君には感服します。
「歩こう会」の。ちょっとした満足感、小さな達成感、で生活に弾みをつけ、リフレッシュしんしゃい!

編:福ちゃんも高本君も、帰福すると同級生が寄ってきて、モテルな! 故郷の夏を堪能して下さい。ばってん、2回ワクチン打っても感染はするので、700人もの感染者が出ている福岡なので、十分に気を付けて楽しんで下さい。


棚田記
やっと2回目のワクチンを終えた。少しは安心できるが、感染しない訳ではなく、更なる注意が必要。もし感染すれば、重症化はなくても、保菌者として周りに迷惑をかけるし、政府の言を借りれば、「症状が軽ければ、入院せずに家で療養しろ」と言う事になる。関東は、感染者が  4,000人、5,000人を超える。福岡も700人を超える。20-50代を中心に感染が広がっている。感染が広がる、と言うより、「感染への感覚麻痺」が広がりつつあると感じる。政府は「正しく適切な警告」を出さずに、医療関係者の意見も聞かずに、国民の命を守る為と言いながら「政府に都合の良い政策」だけを連発する。何と言う世の中だ!と思うが、我々世代はもう、色々と外に対して、ものを言えなくなった。世の中を徒然なるままに見るだけなのだろうか?そんな思いが去来する。

昨日は中学1年の孫娘の英語を手伝ってやった。実は孫娘に英語を教えている時に、びっくりした事がある。教科書に載っている、日本人の姓名の英語表記が、今までの 名・姓ではなく、日本語の読みの通り、姓・名になっている。孫娘の名前は 我々の時代では、 Miu Tanada となるのだが、今の教科書の教え方はTanada Miu となっている。調べてみると、政府の令和2年の方針で、日本の 姓名の書き方での表現を今後推奨するとなっていた。確かに、明治以降や敗戦時の占領軍の統治下で、日本名も、欧米の名・姓の順で表記する事が「当たり前」の世に育ってきた。不思議とも思わなかった。しかし、海外の仕事で、例えば韓国や中国・台湾、タイ、インドネシアなどの人々と英語で話すると、彼らは自分の名前を、その国の通常の呼び方、つまり 姓・名で表現し表記する。何故日本だけが欧米風に逆に言うのか、訝しんだ事もあった。日本人は昔から、東洋人の名前を本来の発音通りに言わず、例えば中国の陳さんを ちんさんと呼んだり読んだり(本当はチュエンに近い)、韓国の金さんを きんさんと呼んだり読んだり、(本当はキム)、自国流の勝手な呼び方をしていた。ある意味、上から目線で、要はグローバル スタンダードでなかったのではないかとも思う。。中国人は私の名前、棚田をポンティエンと呼ぶ。その度に「違う、私の名前はタナダ!」と言い返してきた。私は中国人ではないので、日本語の呼び名で読んで欲しい。韓国人は私の名前をよく、タナタさんと呼ぶ。その度に、違うよ タナダと濁音で訂正する。だから私は中国人・韓国人を呼ぶとき、むこうの発音通りの名前で呼ぶように努力している。他のアジア人に対してもそうである。それがグローバル・スタンダードの入り口ではないかと思うからだ。だから、日本人の名前を、日本人らしく、姓・名の順で呼称する、書く事は、私は賛成である。

オリンピックは、「何故この時期に開催せねばならないのか?」という思いと、見ていて、勝った選手や負けた選手の必死の表情を見ていると、やはりスポーツの祭典はいいな、という思いが交錯する。

オリンピックの空手を見て驚いた。60過ぎまで剣道をやっていた私には、「武道」と言うものを考え直さねばならなくなった。
まずカタ(形)、これは体の芯の中心を保ち、「気」が入った打突を四方に飛ばす、これは「武道」として美しいと感じた。
しかし、クミテ(組手)を初めて見て、「えっ!」と驚いてしまった。ボクシングのようなグローブをつけ、上下左右にひょんひょん飛び跳ねて、すきがあったら打ち込む、、、という競技らしく、まるでタイ式ボクシングやテコンドー・レスリングの組手争いを見ているようだった。柔道の組手争いも同じように感じる。本来であれば、空手の妙技である「寸止め」で打突を決め、勝敗を決めねばならないと思う。 武道であるから、すべての試合運びを「日本語」行う。だが、あの空手は何だろうと訝しんでしまう。しかも、一本という勝負ではなく、柔道と同じように、効果、有効などで勝敗が決まる。「武道」は剣道にあるように、「やるか、やられるか」の一本勝負であるべきだと思うが。それが剣道が世界的にならない理由の一つあもしれない。、若いものに言わせると、あれは「武道」ではなく、「スポーツ」で、大勢の人が参加出来るから、いいじゃないですか、、、、と言う事になる。同じ剣道部に居た同級生はどう感じるかな。

オリンピックを見ていて、どうにも納得がいかないのが、選手が負けた直後にインタビューする事、またその質問の内容。
負けた悔しさや、原因などを本人が考える暇もなく、インタビューに駆り出される。選手も言葉に詰まる、それをじっと映し出す、そんなマスコミのデリカシーの無さには驚愕する。
これも徒然なるままに見なければけないのだろうか? それが高齢者と言う事なのだろうか。

数日前、病院の帰りに駅で電車を待っていると、中学高学年と思われる女の子数人が、はしゃいでしゃべっている。徒然なるままに聞いていると、どうやら「かっこいい男の子との集まり」が秘密であるらしい、ところが驚愕の言葉が飛び出た。「集まりでは、彼の前で、マスクを外そうよ、そうしないと私たちの顔がちゃんと見えないじゃん、、、、、コロナ移りっこないし大丈夫だよ」   これも徒然なるままに聞かなければならないのだろうか? それが高齢者と言う事なのだろうか。

高齢者になって、徒然なるままに世を楽しむと言う事の難しさを感じるが、皆さんは如何に?
吉田兼好に、君は気持ちが不健康だね、と言われそうだ。 





編:久し振りの、番外編でない、歩こう会が、7月23日に開かれたようだ。

左から服部、森實、高木、行實、髙田、蓮尾、高本、寄川、本吉(前列)、稲永(写真撮影)

高田記

コロナで参加を見送っていた歩こう会に久しぶりに参加、ワクチン接種も2回終わった仲間が西鉄二日市駅に
12時10名が集まった。

森實君は昨年奥さんを亡くし、酒は飲めないので元気な姿を見せてお別れとなりました。
筑紫路の幹事行實君設定のコース、二日市駅から日田街道を歩き、水城まで歩いた。真夏の30度を超える街道は当然のことながら暑く、歩こう会9名の隊列は間延びを繰り返しながら水城館に到着。(資料館、夏は涼める)

 
ここは水城の東門跡があり、展望台もある。           展望台から

12時集合だったので歩きと見学は早々切り上げ、西鉄都府楼駅前の目的地「おばんざい えん屋」へと歩いた。ここで飲めない服部君と高木君は別れた。別名アルコール会とも言い、このために歩いている会の本領を久しぶりに味わった。暑さの中に歩いた後の生ビールは格別においしく勢いよく飲みすぎた。しかも昼から。でもたまには昼ビールも良かろうが、サンデー毎日だもんね。
最初に蕎麦が出たのは記憶があるが後はなし、ご主人の気持ちがこもった料理がコースで出てきたものだから余計にビールが進み、帽子を忘れて帰ってしまった。「えん屋」は昼だけの営業で手ごろな価格の飲み放題、高齢者に優しい居酒屋、コロナ自粛の鬱憤を晴らした気分。 今回は買い替えたばかりのスマホをうまく使えなくて、またカメラを持って水城に行きました。水城館は東門跡で、西門跡がJR水城駅近くにあります。
写真の木立(水城)の中心が西門跡で古くから生活道路として使われ、現状は何もない。(木立の向こうは太宰府市)つまり太宰府側の水城整備はほぼ終わっているに対し、大野城市側の整備が進んでいないということで、今後西門跡が整備対象になると思われます。現状ここに行くには県道31号線に2014年開設の「水城ゆめ広場」(下写真)に駐車場もあり、500mの散策をして西側(大野城市側)の水城を歩くことができます。東側と西側は御笠川で分断はされているので、将来は御笠川に歩道橋ができれば東西の水城がつながり、今以上に水城、古代を感じながら散策ができるんだけどな~。
(ロマン&希望)

   


        

記事書いてて4月までO市の史跡対策委員会の委員をしていたことを思いだしました。最近かかわりもなくなり、遠い記憶になってしまった今は別世界です。
酒と忘却で短い文章を書くのに苦労しました。高田

編:高田君、皆さん、筑紫路の一日の報告ありがとう。久し振りの旨いビールで、筑紫路ロマンも忘れ、おまけに帽子まで忘れてしまった??!! よかよか、久し振りの憂さ晴らしたい!
それにしても、今日7月29日現在、東京は感染者3,800人を越え、オリンピック選手・関係者の陽性も増えている。どうなる事やら。福岡も感染者が急増しているので、十分気を付けて下さい。